日本と台湾の絆・八田興一

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八田興一氏の銅像頭部が持ち去られた
事件について市議がSNSで自供

台湾南部・台南市の烏山頭ダムで16日早朝、
日本統治時代に同ダムの建設を指導した
日本人技師、八田與一の銅像の
頭部が切られているのをダム関係者が発見、
烏山頭ダムは日本人観光客も訪れ
日台の絆の象徴とされていた。
そんな八田與一の銅像の頭部が
持ち去られたたのか?
理解に苦しむが記事によると
台湾と中国の統一を主張する
元台北市議の男が17日、交流サイト上で
犯行を自供、警察に出頭した。
男はフェイスブックで
「自分がやった」と公表した上で
台北市内の警察署に出頭。
当局は共犯とみられる
女とともに身柄を台南に
移して事情を聴いた。
男は1958年生まれで、
現在は台湾の急進統一派の
団体「中華統一促進党」に所属。
94年に統一派の政党「新党」から
台北市議に当選し、1期務めた。
任期中、市幹部を殴り起訴された。
また、2016年には急進的な
台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、
起訴されている。
男は自身を日本統治時代の義賊に
なぞらえる発言も投稿。像の頭部を
指すとみられる「八田さん」を、
中華統一促進党の「党本部に
届ける」などとする記載もあった。


烏山頭ダとはどんなダムで八田與一氏は
どの様に関わったのでしょう?

嘉義市から台南市の野は嘉南平野と
呼ばれておりますが、洪水と干ばつと塩害という
三重苦に喘ぐ不毛の大地でした。
それを見て、八田與一のチャレンジ精神に
火がついたのでしょう。
緑地にすべく一大灌漑計画を立案し、
総督府に提出します。
〈調査報告書の内容〉
①官田渓(かんでんけい)の上流の烏山頭に
ダムをつくり貯水する。
②台湾西部彰化県の濁水渓に3カ所の
取水口を設け烏山頭ダムに引き込む。
③烏山嶺の山のむこうの曽文渓の水を
ムに引き込むためのトンネルを貫通させる。

延長3078m、トンネル高さ、
幅ともに5・6m。
④ダムの大堰堤
・高さ56m・頂部延長1273m
・頂部幅9m・底部幅303m
 
嘉南平野 南北110㎞、東西71㎞に大規模な
灌漑工事と排水工事を行えば干ばつが
解消されると共に塩害発生域の土地改良も
可能になり、15万haの農地から一躍90tの
増産が可能。
山形土木課長、下村海南台湾総督府民政長官、
明石元二郎台湾総督の決断により、
国会で承認され、1920年(大正9年)に
工事が開始されます。
時に八田與一、34歳。10年後の
1930年(昭和5年)に完成します。


八田技師はなぜ成功したのか
台湾を愛した日本人』土木技師八田與一の生涯
の著者、古川勝三氏は、八田氏の成功について
次の4点にまとめています。
 
(ア)34歳の若さで7000億円もの
巨大工事がなぜできたのか?
★八田技師の才能と信念を信じる上司がいた。
(イ)なぜ、異民族から恩人として尊敬されるのか?
★考え方の中心に、いつも庶民(嘉南の農民)がいた。
(ウ)なぜ、東洋一の規模を誇る嘉南大圳は成功したのか?
★たゆまぬ研究が自信を生み、決断したことを実践した。
★良き部下を持った。
(エ)なぜ、独創的で他の人が考えつかないような
発想ができたのか?
★多くの優れた師に出会い、その師から
知識だけでなく物事の考え方を学んだ。


八田興一氏と台湾の絆
八田さんの銅像は功績を記念するために
ダム完成後の1931年7月に
作られたものです。
太平洋戦争末期、金属供出令により
徴収された銅像を終戦後に嘉南の人が
隆田駅の倉庫にあるのを発見し、
烏山頭に持ち帰り、倉庫に隠し大切に
保管し世情が落ち着くのを待ち
1981年に元の位置に戻された。
後ろにある墓は43年5月8日
米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した
大洋丸の與一さんと、45年9月1日に
珊瑚飛瀑に身を投げた妻の外代樹の死を
悼み、嘉南の人々が二人が永遠に
烏山頭に眠って貰うことを願い
御影石を探し出し、日本式の墓を造って、
ダムを見下ろす丘のほとりに埋葬
 墓石の表には「八田與一・外代樹之墓」とあり、
裏には中華民国35年と刻まれております。
文字通り台湾の土になったのですね。
敗戦国となった日本が台湾から引上げた
翌年の12月15日です。
何と敬愛されていたのでしょう。
台湾のの方達は八田與一の恩を
末代まで忘れませんと誓って
守り続けています。


八田興一氏が作ったダムとは?
 
このダムは長さ1273m、高さ56m、
堰堤上の幅は9m、底の幅は303m。
建築工法としては
『セミ・ハイドロリック・フィル工法』と
呼びます。
この工法のダムはアジアでも今はここだけしか
残ってません。
一般的にダムといえばコンクリートダムを
連想しますが、この工法はダムの基礎は
岩盤まで掘削し、底部中芯部に
中心コンクリートのコアを造り、
堰堤を築造する地点の両側に
玉石、栗石、砂利、小砂、粘土の混合した
土壌を盛土し、真ん中には河水を導き入れる
ための溝にします。
その河水溝を450馬力のジャイアントポンプを使い、
両側の盛土に向かって射水するのです。
そうすると玉石はそのまま残って、
栗石、砂利、小砂、粘土の順に中央部へと流され、
その真ん中の部分には濁り水が流れて、
粘土が中芯部のハガネ層を造り上げる仕組みです。
この独特な工法から『八田ダム』と呼ばれています」
しかしダム建設の工事中、取水口トンネル
落盤事故等で134人が亡くなっています。
記念公園には慰霊碑もあります
慰霊碑の正面には八田さんの慰霊文があり、
その他の三面には台湾人、日本人を
一切差別することなく、亡くなった順番で
一人一人の名前が刻まれています。
記念公園の敷地は5万㎡。
公園内には、工事中の官舎が4棟復元されて、
その中も見てきました。
木造モルタル造りの平屋建てで、質素堅実な
生活振りが目に浮かびます。
また展示館には八田與一の生涯と
貢献が紹介されています。


日本と台湾の絆
昭和5年に完成した烏山頭ダムは未だに
嘉南平野を潤し洪水から守っています。
大正から昭和初期にこれだけのダムを造り
台湾の発展に寄与した八田興一氏は
日本人の誇りでもあります。
また台湾の方々とこれから先の絆を
築いて行く礎でもあります。
お隣台湾と此れから先、未来永劫
仲良くお付き合いしたいです。


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